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1999年 3月18日 TGI Corporation 田中技研インタ−ナショナル 東京本社秘書課 監修
2008年10月28日 TGI Corporation 田中技研インターナショナル 東京本社 Ver.26更新
2010年 5月22日 TGI Corporation 田中技研インターナショナル 東京本社 Ver.27更新
2024年 3月 TGI Corporation 田中技研インターナショナル 練馬サテライト Ver.32更新
▲千代田区麹町の本社(相互二番町ビル)前で若き社員と撮影
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このウエブサイトは、当初は弊社から株主・社員・契約社員等の関係者向けに定期発信されていた電子
『メールマガジン』の連載を再編集した内容で、一部時代が前後している部分があります。
晩年に弊社の相談役を務めた(弊社代表取締役 田中秀明の父)田中廣の公務員回顧録である。なお、
ここに掲載した内容は、1990年(平成2)年3月24日発刊の高知新聞 「地方政治・経済の断面 連載
第12号」の新聞記事をベースに構成されています。
高知県の建設プロジェクトの多くは北に四国山地と南に太平洋・土佐湾という山間部と海岸線の複雑な地
形を走る新たな道路建設だと言える。この険しい山地や河川が多いなど平坦な土地が少なく開発に携わる
人々の苦労はより大きい。そして、そこにはふるさと「土佐の高知」をこよなく愛する高知県民の暮らし
がある。
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弊社の相談役だった田中廣は、昭和7年(1932年)元旦、高知県中西部に位置する清流「仁淀川」流域の
高岡郡日高村能津に生まれる。昭和31年に高知県職員として採用になった。当時の高知県庁総務部を振り
出しに、出納会計、及び農林行政などを経て、“天職”の「公共用地の事務」とめぐりあったのは昭和
38年からの土木部河川課勤務時代。鏡ダムの建設損失補償交渉に当たったのが始まり。時代は公共用地の
需要が飛躍的に拡大して、土地行政のスペシャリストを必要としていた。
▲日高村の生家の前には、NHKの朝ドラ 『らんまん』現地撮影スポット、日本一の清流「仁淀川」が流れる。
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3、定年を迎えた父「田中廣」と会社を創った息子「秀明」
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一方、田中廣の長男「秀明」は平成元年(1989年)11月10日、友達や各界の有志12人が
設立発起人とよって東京都千代田区二番町(東京メトロ・有楽町線麹町駅2分)に株式
会社田中技研インターナショナル(TGITOKYO)を設立した。初の社員は東京ベイ・
ヒルトンホテルから大沢が転職して来た。そして、その翌年春に、初の若き新卒
社員(中央大学の高橋と日米会話学院の佃)2名を迎えた。
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▲1989年 株式会社田中技研インターナショナル創業地
ダイアパレス二番町613号室
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1991年の社員旅行は社長の故郷高知市の高知城・桂浜等を訪問、初日の「おきゃく
(宴会)」ではウツボの唐揚げが大皿に盛り付けられ、美味しく頂いたが料亭を
出るとき板長からグロテスクなウツボの恐ろしい姿を見せられた、東京から女子
社員が驚いたことは言うまでもない。
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▲左:高知の街を走る路面電車(はりまや橋電停)
▲右:高知訪問1日目は堀詰電停近くの料亭で「お客(宴会)
平成2年(1990年)春、高知県庁で用地監を務める父田中廣は高知県庁を58歳で定年
退職を迎えた。
春は出会いと別れ、人事異動の季節です。平成2年(1990年)3月23日に高知県庁も
人事異動(4月1日付)を発表した。「後進性脱却」・「県勢浮揚」へ、4,630億円の
一般会計予算とともに、新布陣の執行体制を敷いた。
その一方で、長年にわたり高知の県政発展に貢献し、後進に道を譲る職員もいた。
当時、高知県庁土木部用地監の職にあった田中廣もその一人。用地事務一筋とも言
える半生。一風変わった職名である。高知県では「用地監の前に用地監なく、用地
監の後に用地監なし」といわれ、この田中廣のために用意された最高の一等級ポスト
というのが専らの評。
高知県内の重要プロジェクトのほとんどにかかわって、特に難しいといわれる高知
県の公共用地確保に半生をささげた。陸海空の交通網整備を中心にますます重要性
の高まる公共用地需要と向かい合ってきた。
当時、高知県高知市を訪問された安倍自民党幹事長と懇談する父田中廣の姿があっ
たが、ある県議会議員からは「次に内閣総理大臣になる」安倍幹事長(元、安倍
総理の父上様)と「次の次に高知県知事になる」田中さんというデュエットで
カメラ撮影された(写真参照)。
写真:当時の故安倍自民党幹事長(左)と田中廣(右)
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田中廣の活躍を報じた新聞記事
時代は前後しますが、土地行政のスペシャリストとなった田中廣は、度々新聞等の
取材を受けているが、高知県庁用地管理課の課長時代の昭和59年(1984年)6月22日
の用対連全国協の会長表彰授賞を報じた新聞は「高知県庁の用地補償関係の第一人
者。」だというコメントを掲載した。そのとき、「うちのおやじはスゴク立派な
役人なんだと思った。」と、社長は当時のことを振り替える。
こんなエピソードがある。土木部用地管理課の課長時代、公共用地の仕事の中に、
河川の砂利採取の業者許可もあった。田中廣が課長のポストに就くと、時期を同じ
くして、全国的に広がりをみせていた環境問題が県政上、大きな課題となり、この
行政にも真正面から取り組み、砂利採取の許可制限を行なった。
そうすると、思うように仕事ができなくなった一部の悪徳土木業者の脅迫、いやが
らせ、脅迫が頻発、被害は家族にも及んだ。当時、高知県警察本部の刑事が自宅の
電話に何やら装置を取り付けて待機していたことを思い出す。
しかし、田中廣は「だめなものはだめ」だと言う公務員としての正義感を貫いた。
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高知県庁と高知県土地開発公社には百余人の用地担当の職員がいる。彼らは華やか
な県政プロジェクトの打ち上げパーティーや施設完成のテープカットなどとは無縁。
高知県や国の委託を受けた公共用地を取得するため、工期、予算をにらみながら、
来る日も来る日も、ひたすら地権者と交渉に当たる。
端的にいえば、土地を買う前に、“人の心を買う”。 ほとんどの公共事業は用地
取得を伴う。高知県の場合、土地代が高く、県民性や悪徳業者の横行などで特に
難しい。「用地問題が解決すれば事業の九割は仕上がったも同然だ。」と言われる
ゆえんだ。
逆に、用地の確保ができなければ、事業は絵にかいたもち同然。下手をするとせっ
かく確保した予算を国に引き揚げられてしまうケースもあり得る。 昭和50年(1975
年)代後半から公共用地の需要が急激に増加した。主として道路関係の重要プロジェ
クトが目白押しだった。ほかに、高知市の浦戸湾東部開発
事業(80億円)、高知新港三里地区建設事業(1,000億円)、須崎港建設(150億
円)宿毛湾港建設(320億円)、更に四国横断高知自動車建設2,500億円の用地など
膨大な資金投入が見込まれた。
写真:高知自動車道
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公共用地の取得は、(土地収用法などを盾に)“がいに(強行的に)やると”地権
者や関係住民が反発する。ソフトタッチに優しくやると公共補償制度が崩れる恐れ
がある。中庸の原則を守らなければなりません。物理と心理が一体にならないと目的
は達成できない。
物理とは客体、つまり 「土地」です。心理とは「人の心」、地権者の気持ちを動か
す知恵です。用地の買収は、地球の上の場所は動かせないが、法律上の権利を動かす
ということだと、田中廣の比喩を交えた語り口は独特だ。
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「動く六法全書」と言われる田中廣。高知県庁きっての法務のベテラン。法律・条例
に精通しているだけでなく、行動派であると、高知の新聞は書いていますが、自宅の
書斎には小遣いで六法全書を取り揃え、常に最新版に更新しているだけではない。中央
大学法学部の学友等には裁判所の裁判官・判事や弁護士が多い、その法律畑の仲間と
独特の口調である土佐弁(高知県の方言)で語り合う情報ルートもある。
いつとはなしに、「動く六法全書」のニックネームが定着した。難航する拗れれた問題
では地権者との交渉現場の最前列に必ず田中廣の姿があった。
率先垂範の仕事ぶりに、同僚、後輩の信頼も高かった。オーバーな表現かも知れないが、
尊敬を込めて「用地天皇」の別名もあると当時の高知新聞は報じている。
そもそも、この “天職”の用地事務とめぐりあったのは昭和38年(1963年)の高知
県庁・土木部河川課時代。高知県中部鏡川の鏡ダムの建設損失補償交渉に当たったのが
始まりと言える。 この年、それまで「建設省方式」「農林省方式」といった具合に縦割
り行政でバラバラだった補償基準が、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」として
政府で閣議決定され、一体化された。 「極端にいうと、同じ土地でも農林部が買う値段と
土木部が買う値段が違っていた。こんなことでは地権者の理解は得られません。
日本政府の要綱が決まったとき、すぐガリ版のプリントを切りました。いまでこそ、解説
書のたぐいは沢山出ていますが…」と、田中廣は当時を思い浮かべる。
用地買収に当たっての公平さ、統一性の確保、別の言い方をすればゴネ得の排除。
田中廣の努力はその後、「高知県の公共事業の施行に伴う損失補償基準」の策定など内部
で「赤本」と呼ばれる「用地事務取扱例規集」や、高知県内の市町村役場、四国電力など
も加えた高知県用地対策連絡協議会の結成などとなって実を結んだ。
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昭和43年(1968年)春の人事異動により、田中廣は土佐長岡福祉事務所の生活保護適用
主事となり、毎週少なくても2日は徳島県県境の山間部を駆け回った。それが切っ掛け
となり、わが家に富士重工のスバル360のマイカーが登場し、空冷式エンジンの軽自動車
ながら現地への足として活躍した。
翌年春の人事異動では、高知県農林技術研究所の総務課長勤務を経て昭和47年(1972年)
春の人事異動により、再び、用地業務の総元締、高知県庁・土木部用地管理課へ戻った。
当時、日本列島改造ブームで、土地の値段はうなぎ上り、公共用地の需要も急増した。
同課で係長、企画班長、課長補佐、課長へと昇進して行き、この道一筋。
その後、昭和61年(1986年)3月、春の人事異動で高知県庁「用地監」の肩書と冷蔵庫も
付いた特別個室が与えられた。会社員であれば、正に取締役の重役ポスト就任に相当する。
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田中廣の過去を語る中で、役人生活中最も大きな功績とされるものは、国立高知医科
大学の建設、高知空港のジェット旅客機運行に伴う滑走路拡張工事、四国横断自動車道の
建設、国道33号西バイパス開通、鏡川改修事業、高知県東部流域下水道建設。このように
県政上の重要施策が歴史年表のように並ぶ。
そんななか、昭和50年(1975年)、51年(1976年)の連年災害も武勇伝として語り継が
れている。台風銀座と呼ばれる高知である。特に、昭和51年の台風17号による激特
事業で高知市上本宮町の450戸の住宅を移転させる補償交渉は大事業だった。
当時、任期一期目だった高知県の中内力知事も大いに喜び、ポケットマネーで労をねぎ
らってくれた。
地元マスコミ関係も含めてアッと言わせたのは、昭和53年(1978年)末の地元「N化成
移転問題」。高知の県庁所在地である高知市の典型的広域悪臭公害といわれ、高知県庁の
生活環境部(現・保健環境部)も高知市役所の環境管理部(現・市民環境部)も口では
「厳しく対応」を繰り返すものの、手を汚そうとせず、問題処理能力もないまま長年放置
されてきた。この問題をあざやかに解決したのは当時の用地管理課企画班長の田中廣を
中心とした高知県庁の土木部グループだった。解決に当たっての名目は「国分川高潮
対策」の「堤防強度阻害工作物の撤去」という“奇策”であった。
写真:当時の高知県知事中内力氏
昭和61年(1986年)春、田中廣は高知県中西部の須崎港の補償交渉で無理がたたり、過労
で倒れて救急車のお世話にもなった。入院中、高知県知事が三度も見舞いに来てくださった
思い出もある。
このように、重要プロジェクト推進の縁の下の力持ちとして県政は田中廣を必要として
きた。勇退後も高知県は引き続き、この田中廣を必要とすることになる。
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無論、用地確保の難しさは今後も続くであろう。
「公共用地需要に対応するため、高知県
に土地対策局を設置すること。これが私のお世話になった県庁への“遺言”です」と急に
真剣な顔になった。 後輩への「贈る言葉」は「常に得度する」だそうだ。
「親鷽上人の教えですが、私の座右の銘です。毎日仕事に当たって、成功から得たこと、
失敗の教訓、 どちらも常に自分を省みながら取り組むことと理解しています」。田中廣
は懸案事項をメモ用紙に書いて、四六時中ポケットに入れている。スーツを替える時は、
必ず家内がポケットのメモも入れ替えるそうである。
勇退を目前に控えた平成2(1990)年3月24日の日もまだ4枚のメモ。 「何とか、見通し
をつけて去りたいんですが…」と、最後まで全力投球。完全燃焼男の面目躍如の田中廣で
あった。
勇退後、今度は『高知県土地開発公社』 専務理事の要職が待っていた。公共用地の
確保のため、高知県庁と連携した重要な役割を担う。
そして、1991年(平成3年)土地開発公社の専務理事を最後に、田中廣は独自の道を
歩み出す。
高知市の中心街堺町(はりまや橋の四国銀行本店の西隣)に国土交通大臣建設コンサル
タント業:「株式会社高知建設経済調査研究所 を設立、代表取締役社長に就任した。
設立と同時に顧問弁護士を必要としたことから創業期から軌道に乗る1993年まで弊社は
毎月の青山弁護士への顧問弁護士費用35,000円を東京から振込んだ。 その後事業拡大に
伴い、事務所は堺町から鴨部に移転、会長職を務めた後、2008年(平成20年)10月31日
に退任した。
▲2004年(平成16年)11月25日撮影、株式会社高建エンジニアリング 会長室ソファーにて、田中
廣
田中廣は、自ら創業した建設コンサルタント業の会社会長を勇退する10月中旬、急遽
東京にやって来た。 そして、更に中国東方航空機で中国・上海市へ飛んだ。上海
開発区に完成して間もない100階建ての金融センタービル(森ビル)や上海郊外の
野菜栽培の種の業者などを駆け回った。
株式会社高建エンジニアリングは、田中廣が会長職から去った後、株式会社高建エンジ
ニアリング へ改名し、更に株式会社高建総合コンサルタント(本社は県庁所在地の高知市
から高知県西部の四万十市駅前町へ移転。)に変更。田中廣が所有していた株式は
(当時私には秘密で)既に人事交流があった愛媛県松山市の株式会社ウエストコン
サルタントへ売却。田中廣の次男の前妻・田中朱美が代表取締役社長に就任した。
その株式売却金を元手に田中廣はドイツ製の高級車「メルセデス
ベンツ E320
アバンギャルド4ドアサルーン」を東京で購入した。
それまでのマイカー「日産セドリック」から乗り換えた。いつの日かベンツを運転し
て母と一緒に日本各地をドライブしたい夢があったようです。ただ残念なことに、
母はステージ4Bの末期癌であることが判明し、父の夢は実現しなかった。母は2003年
11月6日の深夜10時28分に息を引き取った。翌7日午前2時に高知市愛宕の病院から、
田中廣に代わって次男が運転するベンツの後部座席に座る父と私の膝の上には毛布に
包るまれて永眠した母がいました。母はこのベンツで無言の帰宅をした。その後も、
田中廣は母への思いを寄せて14年間このベンツを乗り続けることになる。
ある時のこと、某進学塾があるJR朝倉駅前交差点で信号待ちで停止した際に土佐中
学校の合格者として孫の名前が張り出されていることに気が付いた。父は歓びの
電話を東京の私に架けて来たことを思い出します。ちなみにこの合格者発表はその
翌年春まで張り出されていたようです。
田中廣の孫(私の倅)は東京の早稲田大学付属中学校への入学を取り止め、高知市
にある土佐中学校へ入学、私の妻も東京から高知市役所福祉管理課へ転職して高知へ
一時移住した。田中廣は休みともなるとベンツを運転して二人を仁淀川流域の日高村
鴨地や伊野町神谷の親戚宅や県内の観光スポット、レストラン等へ連れ回ったこと
は言うまでもない。妻と倅が高知市で暮らす間、私は単身東京に残った。しかし、
倅の東京工業大学付属高校への進学に伴い、妻と倅は東京へ戻ったことから、田中
廣は再び高知市の自宅でで一人暮らしになった。
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田中廣は2008年10月末で会長職を退いた後、ベンツで高知市鴨部の事務所付近を通り
かかっても、立ち寄ることもなくなったが、父にとっては高知県庁とともに思い出深い
建設コンサルタント会社であったに違いない。
私にとっても思い出深い、この会社が未だ高知市堺町にあった創業当時、経理等の事務
処理の応援のため、東京・麹町の田中技研インターナショナルの社員大沢由利子を1週
間限定で高知建設経済研究所へ送り込みました。その社員、夜は連日父の友人(高知県
庁時代の同僚)と一緒に高知市内の居酒屋でお酒を飲んでいたというエピソードもあり
ます。そしてその翌年の田中技研インターナショナルの社員旅行は東京駅から新幹線、
特急列車で瀬戸大橋を渡り、高知市を訪れ、父が社長を務める高知建設経済研究所を
表敬訪問した思い出もある。ちなみに、社員の大沢は2度目の高知訪問となった。
田中廣は、高知・東京・上海にネットワークを持ち、今日も新たなビジネス・プランの
実行に向けて自ら運転する(高知市の郵便番号と同じ)「・7-80」のナンバープレー
トを付けたブリリアント・シルバーカラーのメルセデスベンツで高知の街を走っている。
【※備考】2017年高齢者ドライバーのため、父田中廣はベンツを廃車にしました。
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田中廣は、苦学して中央大学で法律を学び、長い公務員人生の大半を高い人事評価を
得た公共用地補償のスペシャリストとして活躍してきた。
田中廣の長男であるTGI(田中技研インターナショナル)社長の田中秀明は、もの心つい
た頃からずっと父の熱心に一生懸命働く姿を観て育ってきた。 仕事は高知県内のみなら
ず、毎月2,3回は東京の建設省(現在の国土交通省)へ突然の出張に出ることが多かっ
た。国鉄・宇高連絡線・寝台特急あさかぜ号、 こだま号、新幹線ひかり号、全日空YS
−11、(伊丹経由)日本航空ボーイング727、 そして最新の全日空ボーイング767・
同737や日本航空エアバス機など東京への交通機関は目覚しく進歩した。当時、高知から
東京へは時間的にとっても遠いところだったが、その東京 「霞ヶ関」に向けて勢い良く
出張する田中廣を観て育った。
そんな家庭環境なのか田中社長は、高知西高校卒業後の進路は東京か?、あるいは当時、
知人がニューヨークでアンティーク・トーイのショップをやっていたことからアメリカへ
渡航か?と思っていました。結局、進路は上京。東京の大学を出た後は、そのまま東京・
中野区江古田2丁目のアパートに住みつづけ、 東京・赤坂8丁目にあった大手の翻訳&国際
会議のサービス会社に就職したが、実際社長の父田中廣は郷里「高知」の銀行にでも就職
を望んでいたようだ。
南国土佐を後にした弊社の田中社長は本業の仕事の傍ら東京生活の中で長年に渡り、PHP
研究所(パナソニック創業者・故松下幸之助氏設立)友の会による社会事業、光が丘パーク
タウン(都内最大のマンモス団地)自治会役員、勤労青少年団体「ぱれっと」の代表世話人
などの社会奉仕に無償で務めて来た。
とにかく人のお世話が大好き、田中社長を務める会社や主宰するグループ内で結婚した
カップルも多い。 恋のキューピットでもある。
きっと父 田中廣の公務員として全力投球した半生が大きく影響しているに違いない。
父田中廣には兄賢一(元高知県日高村議会議長・田中建設創業者・社長)がいたが昭和
50年(1975年)5月に急死した。以来、兄賢一に代わって田中家一族の兄弟姉妹への関り
を持つ。明らかに大きなお節介だと思われることも多々ありましたが、一族に何か困った
ことが起きたらいち早く解決に向けて奔走するのも、父田中廣でした。弟允泰は田中建設
株式会社の二代目社長(現在は会長)、更に建設業協会の発展に尽力、そして妹和子は
医療法人岡本会さくら病院の総婦長(総師長)として長年貢献、妹節子は人間国宝M田
幸雄の妻として夫を二人三脚で支えた功労に対して文化庁(日本政府)から書簡を受けた。
父はここに至るまでの汗と涙の人生ドラマにお節介と言うほどに大きく関わったうるさい
兄貴であったに違いない。ただし、常に皆の繁栄を切に願っていたと思う。
父田中廣より1歳年下の母は2003年11月6日(夜10時28分)に高知市内の病院で他界した。
享年70歳。それから15年年後に父は自宅で突然脳姑息で倒れた。幸い畑山啓吉さんの機転
で一命を取り留、高知市内の内田脳神経外科で1ヶ月間、すこやかな杜リハビリテーション
病院で6ヶ月間、そして日高村の特別擁護老人ホームコスモスの里を経て、2023年11月27
日(午前11時)に高知県越知町の前田病院4階の入院病棟で静かに息を引き取った。
今、高知市朝倉の自宅を見下ろす丘の墓で母と一緒に居ます。そして、父の墓の右隣は
株式会社遠藤青汁高知センター及びKCB 高知ケーブルテレビの創業者・野村社長で、生前
仲良しだったことから父と同時期お隣に墓を設けた。きっと、あの世でも、ビジネスの
こと、高知県政のことを土佐鶴(二人が大好きだった高知の銘酒)を呑みながら談笑し
ていることでしょう。
走行距離(人生)は田中廣の方は長いですが、共に苦労の連続で休むことなく走って来た
二人が隣同士で眠っています。(合掌)
現在両親の仏壇は高知市の実家にありますが、1998年2月に東京・光が丘の分譲マンショ
ンへ入居して以来、一番明るいリビングルームに先祖供養と最寄りの八幡宮様を祭る神棚
を設けました。毎朝一番に榊の水を交換して拝礼することから私の一日が始まる。わが家
の代々の家系図の額縁の隣は母の遺影(生前高知県知事公舎で撮影)、そして2023年12月
上旬に父田中廣の遺影(ベルモニー高知葬儀社による合成写真)が加わりましたた。
私が住む東京都の光が丘は太平洋戦争の当時 「旧日本陸軍・成増飛行場」で、戦争後期
は神風特攻隊の戦闘機が飛び立ち、多くの若きパイロットが散って行った悲しい土地です。
今はその上空を羽田空港を北周り練馬コースで離発着する世界の民間航空機が飛び交って
います。
天職の仕事公共用地『社長のお父さん 田中 廣』より、
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